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広東語は古代の標準語だった

 


 表題の通り、広東語は古代の標準語であったというお話。別のページ(広東言語)で三国時代の文化人に広東語にかなり近い言葉が使われていたという記述をしたが、これに関するこの件にもう少し突っ込んでいく。

 とある研究機関の人と言語学者の10年近くにも及ぶ研究の成果が発表されたらしい。内容は以下のようなものである。


広東語の起源は古代の民族共通語雅言で、広東省の広信・封開(肇慶市封開県)は広東語の発祥地であり、わが国(中国)の古代標準語の生きる化石だ!!
これだけだと、???なので解説をしていくとこうなる。

 中国の古代には、一種の民族共通語があり、秦〜漢の時期のそれは雅言、宋代以後のそれは官話と呼ばれていた。今日中国語には多くの方言が存在するが、それらの言語には全て雅言の要素が何かしら残っており、その中で最も雅言の要素を色濃く残しているのが広東語だというのである。
 ではその雅言というのは一体どのような言語なのか?雅言の基礎となっているのは原始社会の華夏語で、もともとは黄帝(中国人の先祖とされる)を頭とする華夏部落聯盟の間で使われていたものだそうだ。
 秦の始皇帝が中国を統一した後、”言語の統一”を行ったことにより、雅言の地位が高まり、当時の民族共通語となったのである。その雅言が嶺南(今の広東地域)に入ってきたのは、秦王朝が”百越之地”(広東や広西)を征服した後で、秦に国を滅ぼされこの地域に逃げ込んできた人たちが集まってくると、雅言は彼らの間の交際に必要な言語として使われるようになった。
 こうして考えてみると、三国時代群雄・英雄・名士達が喋っていたのがこの雅言ということになり、曹操を筆頭に当時の文化人は広東語に非常に近い言葉を喋っていたと言える。曹植の有名なあの詩も中国語で読むより広東語で読むほうがよっぽどじっくりくるのである。
 標準語の普通話はもともと由来が西安や河南の洛陽、開封あたりの言語を基礎としていることから、古代の詩を普通話で声に出してみても韻をふまないことが多い。ところが広東語のように古代の雅言を色濃く保存している言語で読むときれいに韻をふむ。こう考えると三国時代も含めそれ以前の詩の愛好者は皆広東語を勉強したほうがいいんじゃない?と本気で思ってしまう(笑)。
 
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さて、広東語の発祥についてみていく。
広東語の起源は古代の民族共通語雅言で、広東省の広信・封開(肇慶市封開県)は広東語の発祥地であり、わが国(中国)の古代標準語の生きる化石だ!!
 と上記でとりあげたこのことについてだが、その広東語のルーツとなっているその場所は、広東省と広西省の境のところで、七星岩で有名な肇慶(Xiu Hing)市に属する封開県が発祥地と言われている。

 そこは(シ蕭)賀古道と湘桂水道と呼ばれる古代唐代以前の中原の漢人(漢族)が嶺南(今の広東)に入る時に通る重要な場所で、桂江・賀江と西江がまじわるところでもあり、嶺南の交通要所であった。
 漢の武帝時にはそこから使者を東南アジアやインド半島に派遣したことにより、海のシルクロードが開拓され、広信(封開)は嶺南でも早くから商業や貿易の重要な場所となったのである。もちろん商売上言葉をかわすことは必ず必要なので、互いのコミュニケーションの為に中原から入ってきた雅言が商業、貿易活動を通じて現地の土着言語と融合し、広東語がこうして形成されたのである。
 こうしてみると広東語の起源も客家語と似たような感じを受ける。ま、客家語も客家人の言語がほとんど変わらず現在に至っているのだが、広東語の歴史は客家語のそれより更に古い。そう考えると日頃広東語を喋っている広東人に対して異常なほどの畏敬の念が生まれそうだ(笑)
 
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 話を戻して、広信(封開)はまた嶺南において中原の文化が最も早く伝わったところである。三国時代の士燮(詳しくは呉書見聞さんを参照)もここで学校を開き、土着民に中原の儒教文化を普及させ、漢族の移民も百越(嶺南)文化の中から成分を吸収し、漢民族の文化を主体とした嶺南文化を形成したといわれる。
互いの文化交流が進むにつれて、雅言を主体として百越土着言語要素を吸収した広東語もしだいに人々の主要の言語となっていった。
 
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 西漢(日本では前漢かな!?)元鼎6年(紀元前111年)越南国を滅ぼした後、交趾刺史部を設け各郡を監督させた。東漢になると交趾刺史部の代わりに交州が設置され、州の政治は広信におかれたので、広信は嶺南の政治の中心となった。
土着民族が漢文化と漢字を学ぶ時、雅言も学習したという。もともと土着民族の言語は千差万別で、お互いに言葉が全く通じなかったし、文字もなかった。しかし、雅言が彼らの間で普及し始めると、漢人と雅言を使って会話するだけでなく、部落間のつきあいも雅言を使うようになり、雅言は土着民族間の共通語ともなったのである。
 (この事例は日本占領下の台湾との状況に非常に似通った話だ。台湾にも少数民族がおり、彼ら部族間で使われる標準語が当時は日本語だったという話。)
 同時に、古代百越言語のとある要素も漢族移民の言語として吸収され、次第に漢語の一つの方言となっていった(粤語)。中原や北方においては数千年において戦乱が絶え間なく続き、周王朝以来ずっと中原漢語の標準的な音であった雅言は混乱と共に次第に消えうせてしまった。
その点嶺南地域は比較的安定しており、中原の雅言から変化した粤語はずっと元の音体系を保持してきたのである。
こういうことが歴史オタク研究家の長年の研究により、広東語が今現在存在する中国語の中でも歴史上の最初の民族共通語となった中国語(雅言)に最も近いということが分かったということになるだろう。

 もし広東語が中国の標準語だと何と楽しいことになるだろうか想像もつかない(←広東語大好きな人)。
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※広東と広西の名の由来
 そもそも広信って何よ?地図上にも載ってないしそんなとこ知らないっていう方がほとんだと思う。もともと広信の名は、漢武帝時宣言した”初開粤地宜広布恩信”(広東地域を支配するにあたって広く恩や信用を重んじて政策にあたりますんでみなはんよろしゅう!)に由来している。
 226年、呉の孫権時になると、交州は交州と広州に分けられた。この時政治の中心に置かれた場所が広信(封開)であるが、歴史上で初めてこの広州の名が出てくることになる。
 宋代になると広州の地を広南東路、広南西路に分け、広信(封開)を区分け上の中心とし、広信から東を広南東路(つまり広東)広信から西を広南西路(つまり広西)とした。広東、広西、広州はこのような由来があったのである。

地図で拝見してもらうと分かるが現在でも封開県を境に西が広西省、東が広東省という区画になっている。歴史を知ると何でもないようなところに意外な事実が隠れていて非常に楽しい。

posted by KEN at 00:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 広東語
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